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みんな助け合おう という道徳の裏側 [教育]

道徳の教科書化

道徳 という時間が設けられているのは、
自分たちの時代だったら、小学校だけだったと思う。
今もそうなんだろうか?

小学校の親を持つ人間としては、
小学生というのは、中学生、高校生に比べて、
ものすごく先生の言うことを聴くし、聞こうとすると思っている。
(高学年は反発が始まるかも)

これは、親から見てもそう思う。
親の言うことは聴かなくても先生の言うことは聴いたりする。
親としてはなんというか腹立たしい部分もあるが、
それは、家の中では甘えている ということでもあるだろうから、
仕方ないかと思ってはいる。


子どもたちは、大体の場合先生の言うことは、ほぼ100%正しいと信じている。
先生が、偉ぶらなくても、先生は偉いと思っている。
だから先生が悪いといえば悪いし、良いと言えば良いことになる。
先生の能力以前に、先生という立場・存在が子どもに与える影響を考える必要がある。


道徳の強化は一向に構わないが、

道徳というのが、
公教育、公機関によって作成されるというのが、大きく問題なんだと思う。

価値観は人それぞれ違うから教えられるものではないとか、
そういう話もあるけど、それはちょっと違う。
道徳観念は勝手に身につくものでもない。
良い悪いの根本は、親や周りの人が教えている。


ある一定の価値観に基づいて、教育が行われるというのが問題。
国としては、
言い過ぎかもしれないけど、たとえば「国とともに生き、国とともに滅びよう」
という価値観でせめてくるかもしれない。
そういう人を「尊い」として、それが「格好良い」とすれば、
道徳教育は簡単に出来る。


そこまで過激なことはしないだろうけど、
「共助」という関係性は、悪い面を見ればそういうことになる。
死ぬ時は一緒だ みたいな。
自分だけが抜け駆けをしたり、良い目を見るのはダメで、
みんなが困ってたら一緒に困ろう というような。

国としてみれば、
国をなんとしても支えなければ!
と考える末端の人間が多ければ多いほど安定する。
個人の尺度なんて出てこられたら、国を支える人はいなくなる。
年金も税金も、国民が「あたりまえ」として払ってくれないと困る。

上級になればなるほど、公務員はみんなそう思う。
この国に生まれて、この国で育ち、この国のために働いて、この国のために死ぬ。

良いように聞こえるけど、
その気持ちを一旦横においておいて、
もう一回考える必要がある。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130418-00000011-mai-pol
タグ:道徳 教育

TOEIC、TOEFL、英検それぞれの強みと弱み というより、もっと根本的なことが [教育]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130407-00000001-jct-soci


暴論に近いまとめをすると、
コミュニケーションレベルではかると
TOEFL>>英検>?TOEIC
のような印象を受けた。

受験勉強で対策が取れちゃう、TOEICや英検って、英語圏に行ってもあまり通用しないですよ
TOEICで高得点でもTOEFLではそんなにならないっすよ


という資格ビジネスの宣伝。



でもね、TOEFLやるくらいなら外国人とSkypeしたり外人の集まるところに行ってみたほうがいいよ。
その人の目的によるけど、TOEFLなんてお墨付きをもらって、
いざ就職して、本当に英語圏にいくときになったら、確実に不安になるし、

生で触れていること=伝わるという実感

これがないと、たとえTOEFL満点でも大丈夫なのか不安でたまらないと思う。
そもそも、○○語という「教科」では、コミュニケーションは教えてもらっていない。
だからいつまでたっても気後れする。内向きになる。


何度かビジネスの商談場面で英語で話す時もあったが、
別に英会話もいっていないし、TOEFLやTOEICも持ってない。
何言ってるかがわかって、いいたい単語さえわかれば、なんとかなるだろ

就活 うつ 急増とはいうが・・・鬱になるだけマシなんじゃない? [教育]

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130414-00000026-pseven-life


なんというか、鬱になる人はかわいそうだな、と思う。
大学から先の人生を、自分で選んでこなかったから、という見方も出来る。

就職活動って、
義務教育→高校→大学→就職
の、最後の矢印だよね。

でもこのレールって、別にそのとおりにいかなくてもいいはずなんだ。
でも、ほぼすべての人が、このレールに乗っかることを暗黙のうちに選んでいる。
それがあたりまえで、乗れないこと、落っこちることを極端に怖がっている。

そして、乗っけることに必死な親、教師、社会がある。

就職活動でうまくいかない のは、しょうがない。
それは、その人が頑張っても仕方ない部分はある。



鬱になる のは、その人のせいではない。
その人を取り巻く社会に原因がある。


鬱になるといっても、
鬱になったことがあるかないかよくわからないので、なんともいえないけども、
思うに、
本気でそれがやりたい!なりたい!やってみたい!
と思っているときって、
たとえそれにすぐに手が届かなくても、何回もチャレンジできるし、
それが苦じゃないと思う。

そうだとしたら、
鬱になるというのは、

そもそも、そのことが本当に自分のやりたいことではない

という可能性がある。
就職活動でうつになるということは、
その就職自体、別に本気でやりたい!と思っているわけではないんじゃないか?
と考えてもいいと思う。

親は、そのことを理解してほしい。
子どもは、就職するまでの人生、ずっと学校や家庭で育っている。
その中で絶えず、大学に言って就職するという選択肢が「当然のように」語られていたなら、
子どもはそれが当たり前だと思うし、
そうなるように必死に頑張るんだ。
それが本人の望んでいるものなのか?自問自答すらせずに。


子どもが自分で自分のことを見つめなおして、
自分の道を見つけられるように、サポートしないといけないはずだ。
今まで「自分」を必死で「社会」にあわせようとして、
適応で傷挫折して鬱になって、
だとしたら、自分富もう一度向き合って、
自分で歩き出せるようにしないと。


鬱になっただけ、よかったじゃん!
就職してからだと、よけい後で酷い目にあうかもしれないよ。
と、話しかけられたらちょっとはいいかもしれない。

教員 試用 新卒は准免許?そもそもの教師の質という問題は? [教育]

<教員制度改革>「試用」3~5年 新卒は准免許 自民検討

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/education/?1365906654



色々とFBなどでも盛り上がっているところがあるようですが、
これ、試用のときはどういう扱いになるんだろうか?

学校の先生って、地方・小中高いづれかにもよるけど非常勤もかなりいるし、
ますます狭き門で、新陳代謝が進まなくならないか?


個人的な考えでいえば、
組織は新陳代謝が必要で、
それは企業に限った話でもなくて、
公的な組織もあてはまると思っている。


教育だから一定の質が必要というのはわかるが、
だとしたら、そもそもその「質」ってどこまで何を求めるの?
というのがはっきりしない限り、
この免許制度って何の意味があるのかわからない。

担保するべき質が変わっているとか言う話だと、
それはまた別の話で、
時代時代に対応した変化はあってしかるべきなので、
それをいちいち免許とかやるほうがばかげているというか、
免許ビジネスか?
と思ってしまう。

教育機関に対して、
いろんなことを求めすぎているから、こうなっているのかもしれない。

教育の中立性の問題 [教育]

大学の頃、教育の中立性が気になって仕方が無かった。
政治的な問題に限らず、科学にも論争がある。
恐竜はなぜ絶滅したのか?
多くの人は隕石説が定説だと思っているが、
そのほかにもたくさんの説があることを知った。
義務教育では、そんな話、聞いたことも無かったのに。


授業を受ける側は、授業内容は全て正しいと思って覚えるし、
そうしないと実際のところ、点数は取れない。
だから、義務教育では、点数のために、不要なものを排除する。



しかし、大学にいったり、こうして年をとるにつれて、
学説が変わること、社会の価値観が変わること
そういったものを目の当たりにするようになると、


学校で教えている内容って、正しいのか?



ということに違和感を感じ出すものだ。


教師には、教師の学問の自由があり、
教師が自分で勉強した内容を教える自由もあるという。

義務教育段階では、
なんでもかんでも教えると知識や考え方がばらばらになって
「公的に」保証された教育としては不安定なものになるから、
教師の教育の自由の保障としては、
ある程度制限されるというのが法的な見解だと思う。

それは、間違っていないと思う。


だとしても、
やはり昔に比べて国際的な問題、学問的な問題が身近になり、
子ども達が、
自国の考え方に固執していることが、
リスクになる可能性も出てきている。
昔と違って、今日本が置かれている立場は、
冷戦下でアメリカについてれば万事OK という状況ではない。




公教育の場面でも、
教育内容については、
論争内容自体を含めた教育内容を取り扱うべきではないかと思う。

その場合の「中立性」というのは、
あくまでもその題材を取り上げた時に、
教師が取るべき態度のことで、
どういった価値観に誘導するのが適切か、
ということを一切行わないことによって、担保されるものになる。



この考え方には賛否両論だと思うけど、
個人的には、論争のどちらかにつくかどうか、ということではなく、


まずそこに論争があるのだということ、
立場の違い、感情の食い違いというのがあるのだということを知るべき


と考えている。
それに、論争というのは、
相手の立場や考え方、歴史、
イロイロなものを理解しなければならないから、

「単一の答えを導く」というあり方から脱却しなければならない!

といわれている現状の学校教育においては、
積極的に取り上げるべき内容だと思う。


昔、教育の中立性を卒論の題材にしたいと言ったとき、
教授連中に笑われた記憶がある。
おそらく彼らは、
「中立性」自体の「中立性」つまり「どこに落とすの?」
という部分で、必ずどちらかに意識が良くという意味において、
中立なんてありえない

という考え方だったんだろう。
話が通じなさそうだったんで、その時は引っ込めたけど、
外国では当たり前にディスカッションがあることを考えると、
笑われたということ自体が日本の教育をよくあらわしていたのだろう。

今の学校は変わったんだろうか?
まだうちの子は義務教育が始まったばかりだ。

家庭教師をつけるかどうか? [教育]

私は大学受験のとき、家庭教師をつけてもらいました。
しかし、効果があったかというと、あったとはいえません。




そもそも、家庭教師がいい!と言ったわけでもありませんし、
大学に行く理由も、自分自身の中にはありませんでした。
どちらかというと、

「入らないこと/落ちること」

というプレッシャーから解放されたい。
大学には「入らないといけない」という暗黙のプレッシャーから、逃れたい。
そういった思いで大学受験に臨んでいました。
一人暮らしをするために、大学は遠方を選び、
少なくとも「レベルアップ」であるというために、
地元よりは良い大学を選びました。


現在、少なくとも私たちの頃の教育というシステムは、
私の総括では、

システムに従うことが「当たり前である」というように教育するためのシステム

でした。



家庭教師は、確かにその人にフィットすれば効率的です。
勉強することが嫌いな人向け という家庭教師もあります。
しかし、それよりもまず第一に考えてほしいことは、
そもそも、子どもは何のために大学に行くのか?
ということを、真剣に考えられているのか?ということです。


私は、とにかく、
大学に行かなきゃ行けないというのがイヤでした。
大学に行かないという選択肢は無かったわけです。


私は反抗期らしい反抗期が無いまま育ったため、
余計「与えられたレール」を意識的に選択してきたと思います。
あなたの子どもは、多少頭が悪い子だったとしても、
世の中のルールや、親の言うことをきちんと守る子どもでしょうか?

大学にいく、というのも、
いきたい!と望んだわけでもなく、
なんとなく、いくのかな・・・というタイプでしょうか。



もう一度考えてみてください。
あえて話をするのが難しいなら、しばらく観察してみてもいいでしょう。

進路とについて [教育]

人生において、進路というのはとても大事です。

しかし、それこそ中学校や高校の進路というのは、
子どもにとってどういう人生を描くか、
というコースを示すものではなく、

学校が、次の教育機関へバトンを渡すときのコース

をあらわしているものだと思います。



学校としては、

その子どものため

という「聖言」を用いて、
平気で自分たちに都合のいいことをしています。
学校だけではありません。
PTAとか、教育委員会というのも、そうではないでしょうか。


昨日、多くの自治体では入学式があったことと思いますが、
PTA会長は意図したかしらずかわかりませんが、

PTA活動は「学校の先生のため」と言っていました。


配布された資料には、もちろんそういうことは記載されておらず、
子どもたちの成長を地域全体でサポートしよう  のようなことが書いてありましたが、
PTA会長が言ったのが、本心なのでしょう。


敷かれたレール
という使いまわされた表現がありますが、
実際、自分の目標や進路のイメージというのは、
かなりの部分が、「学校」という構造によって形作られ、
意図せずに、学校の描いたシナリオに、あわされていっていると感じます。

逆に、乗っかっているときには、
乗っかっていれば大丈夫という安心感があり、
意識的に乗っかるように努力するということもあると思います。



もしこれを見ているのが親の方であれば、
進路というものについて、学校がいろいろと提供してくる情報ではなく、
子どもが今どうしているのか、というのを観察してみてください。

子どもだって、安心がいいんです。
楽したいんです。
一日中ゲームやって、遊んでいても、
勝手にご飯が出てくるような、ぬるま湯の10代をすごしているならなおさら、
「勉強しなさい!」といわれながらも、
コースをギリギリ落っこちない程度にやりくりしようとしますよ。

そんな様子を見て、

まあ何とか大丈夫か 

と思わないでください。
本当にやりたいこと
目標

そういったものを放棄して、だらだらしていたい

それを目標として生きてしまったら、
コースからちょっとでもはみ出てしまったら生きていけなくなりますよ。



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