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放射能問題 給食をとめるといった時の学校の反応について [健康]

前のエントリでは、学校給食を放射能被爆を避けるという理由でとめることが出来ることを書きました。
もちろん、これはすべての自治体で可能かといわれれば、おそらく「ノー」なのでしょう。
出来ない自治体もあると思います。

幸い、自分たちが住んでいる自治体では、それが可能でした。



しかし、他の子どもたちへの説明内容は釈然としないものでした。
子どもたちへは、「カラダにあわない」と説明するということでした。

これは、どう考えたらいいのでしょうか。


自分たちの子どもは、被爆を避けるために食べない。
しかし、他の子どもたちは、躊躇無く食べるわけです。
先生は、食べることで、被爆する「可能性」があることはわかっています。
「体に合わない」という言い訳にしてしまったら、
他の子どもたちは、気をつけることは出来ないでしょう。

気づいている一部の人間だけ特別に

という選民思想ではありませんが、
子どものため という原理原則が、建前なんじゃないか?と感じざるを得ません。
危険性があることがわかっているのなら、
すべての子どもたちに対して同様の接し方ができるはずです。

放射能問題 給食をやめるという選択肢 [健康]

前のエントリでは、引越について触れました。


子どもが小学校に行きます。
小学校は、給食がありますよね。
給食は安心安全 というイメージがありましたが、
今は、得体の知れない原材料が使われているという見方になってしまっています。
それが良いか悪いかはおいておいて、
現状で、原材料のトレースが完全には行えないということなので、
品目単位で食べさせないということが出来るかを確認しました。


これは、小学校や自治体の考え方に大きく依存していると思います。
昨日、小学校に言って、実際に担当者と話をしてわかったことですが、
自分たちの住んでいる地域の小学校では、
そういった心配から、給食を与えないという方針の親が2名ほどいるらしいです。


全学年をあわせて2名なんで、

1学年80人程度なので、 2/480 ということになります。

1%もいませんね。

まあ、、これが現実なんでしょう。
しかし、2名でもいるということに、安心と自信がわきました。



どんなことを言ってたって、
最終的に子どもを守るのは親なんです。
学校の先生は、面倒は見てくれません。


給食をとめるには、
所定の用紙に書いて提出するだけでいいようです。
ただし、その時に必ず面談がいります。
この面談は、
「なぜ給食をとめるのか!」と糾弾されるわけではなく、

何について気にしているのか?
ということと、
他の子どもにはこういう説明をする

という連絡のようなものです。
用紙に必要事項を書いて提出すれば、とめることが出来ます。

放射能をさけるために引越をしました。 [健康]

うちは、震災後に東京から北海道に移住しました。
理由は、

子どもの放射能被爆を防ぐため

ということに尽きます。
東京にいたときは怖くて子どもを外に出せず、
幼稚園にもいかせられませんでした。

北海道はその点、安心ではあります。
しかし完全に安心かというと、そうではないと思っています。


それに、北海道の人たちはほとんど、
対岸の火事だと思っている人がほとんどで、
あまり「自分たちのこと」という意識が無いようです。
そのため、放射能汚染を気にしているということが、
一種の変人扱いになる という可能性があります。

悲しいことですが、
日本人の多くは、世間やお上が決めたことをそのまま受け入れる傾向が強いです。
従順な市民ではありますが、
私の考えからすると、それは責任放棄でもあると思っています。

あなたの子どもが、大きくなって、
厄介な病気になった時に、
ああ、やっぱり!
と思うときがくるかもしれません。
その時、あなたは自分で責任が取れますか?

という問いかけに対して、
「国が大丈夫だといってた!」と答えるでしょう。



国はそんなに甘くありません。
うまいこと、その責任を逃れるために、
現在もじわじわと証拠を消す作業をしていると思っています。
なってしまってからでは取り返しがつきません。


考え方は人それぞれだと思っています。
だから、移住すべきだというわけではありませんが、
あなたのその選択は、
あなたが責任を持たなければならないのだということを、
きちんと理解したうえで、生きていってほしいと思っています。

教育の中立性の問題 [教育]

大学の頃、教育の中立性が気になって仕方が無かった。
政治的な問題に限らず、科学にも論争がある。
恐竜はなぜ絶滅したのか?
多くの人は隕石説が定説だと思っているが、
そのほかにもたくさんの説があることを知った。
義務教育では、そんな話、聞いたことも無かったのに。


授業を受ける側は、授業内容は全て正しいと思って覚えるし、
そうしないと実際のところ、点数は取れない。
だから、義務教育では、点数のために、不要なものを排除する。



しかし、大学にいったり、こうして年をとるにつれて、
学説が変わること、社会の価値観が変わること
そういったものを目の当たりにするようになると、


学校で教えている内容って、正しいのか?



ということに違和感を感じ出すものだ。


教師には、教師の学問の自由があり、
教師が自分で勉強した内容を教える自由もあるという。

義務教育段階では、
なんでもかんでも教えると知識や考え方がばらばらになって
「公的に」保証された教育としては不安定なものになるから、
教師の教育の自由の保障としては、
ある程度制限されるというのが法的な見解だと思う。

それは、間違っていないと思う。


だとしても、
やはり昔に比べて国際的な問題、学問的な問題が身近になり、
子ども達が、
自国の考え方に固執していることが、
リスクになる可能性も出てきている。
昔と違って、今日本が置かれている立場は、
冷戦下でアメリカについてれば万事OK という状況ではない。




公教育の場面でも、
教育内容については、
論争内容自体を含めた教育内容を取り扱うべきではないかと思う。

その場合の「中立性」というのは、
あくまでもその題材を取り上げた時に、
教師が取るべき態度のことで、
どういった価値観に誘導するのが適切か、
ということを一切行わないことによって、担保されるものになる。



この考え方には賛否両論だと思うけど、
個人的には、論争のどちらかにつくかどうか、ということではなく、


まずそこに論争があるのだということ、
立場の違い、感情の食い違いというのがあるのだということを知るべき


と考えている。
それに、論争というのは、
相手の立場や考え方、歴史、
イロイロなものを理解しなければならないから、

「単一の答えを導く」というあり方から脱却しなければならない!

といわれている現状の学校教育においては、
積極的に取り上げるべき内容だと思う。


昔、教育の中立性を卒論の題材にしたいと言ったとき、
教授連中に笑われた記憶がある。
おそらく彼らは、
「中立性」自体の「中立性」つまり「どこに落とすの?」
という部分で、必ずどちらかに意識が良くという意味において、
中立なんてありえない

という考え方だったんだろう。
話が通じなさそうだったんで、その時は引っ込めたけど、
外国では当たり前にディスカッションがあることを考えると、
笑われたということ自体が日本の教育をよくあらわしていたのだろう。

今の学校は変わったんだろうか?
まだうちの子は義務教育が始まったばかりだ。

家庭教師をつけるかどうか? [教育]

私は大学受験のとき、家庭教師をつけてもらいました。
しかし、効果があったかというと、あったとはいえません。




そもそも、家庭教師がいい!と言ったわけでもありませんし、
大学に行く理由も、自分自身の中にはありませんでした。
どちらかというと、

「入らないこと/落ちること」

というプレッシャーから解放されたい。
大学には「入らないといけない」という暗黙のプレッシャーから、逃れたい。
そういった思いで大学受験に臨んでいました。
一人暮らしをするために、大学は遠方を選び、
少なくとも「レベルアップ」であるというために、
地元よりは良い大学を選びました。


現在、少なくとも私たちの頃の教育というシステムは、
私の総括では、

システムに従うことが「当たり前である」というように教育するためのシステム

でした。



家庭教師は、確かにその人にフィットすれば効率的です。
勉強することが嫌いな人向け という家庭教師もあります。
しかし、それよりもまず第一に考えてほしいことは、
そもそも、子どもは何のために大学に行くのか?
ということを、真剣に考えられているのか?ということです。


私は、とにかく、
大学に行かなきゃ行けないというのがイヤでした。
大学に行かないという選択肢は無かったわけです。


私は反抗期らしい反抗期が無いまま育ったため、
余計「与えられたレール」を意識的に選択してきたと思います。
あなたの子どもは、多少頭が悪い子だったとしても、
世の中のルールや、親の言うことをきちんと守る子どもでしょうか?

大学にいく、というのも、
いきたい!と望んだわけでもなく、
なんとなく、いくのかな・・・というタイプでしょうか。



もう一度考えてみてください。
あえて話をするのが難しいなら、しばらく観察してみてもいいでしょう。

楽に生きるということ [生き方]

自分が大学にいたとき、大学の存在価値は学問的価値だと思っていた。
それは今でもかわらず、そう思っている。
しかし、大学生の半分以上は不真面目で、
何のために来ているのかよくわからないやつらだ。


「大学の頃遊んでいればよかった」
とか
「社会人になってから、大学生があれだけ楽だったわかった」
とか、
大学時代がいかに楽だったか、
という思い出しか語られない。



教育されること が当たり前になった日本では、
そのコースの終焉からは、自分で歩いていかなければならない。
モラトリアムはその最後の期間であり、
標無きコースを自力で進むための準備でもある。



楽をして生きて生きたい人間に限って、
大して考えもせず、大学に進み、
そして「とりあえず」就職するもんだ。


そしてその「楽な生き方」を支援する親の多いこと。
親は何かと、子どもには不自由させたくない という思いから、
なるべく、大変にならないように、生きてくれたらと願う。
しかし、楽な生き方なんて、本人のためにならない。


しかしそこは、親としては、難しいところで、
社会生活を営む上で、必要なことというのもあるし、
ほっといていいモノでもない。

しかしそれは、「社会から」要請されるわけであって、
誰に対する責任かといわれれば、なんともいえない。


この話は改めてまとめて考えてみる必要があるとおもう。

進路とについて [教育]

人生において、進路というのはとても大事です。

しかし、それこそ中学校や高校の進路というのは、
子どもにとってどういう人生を描くか、
というコースを示すものではなく、

学校が、次の教育機関へバトンを渡すときのコース

をあらわしているものだと思います。



学校としては、

その子どものため

という「聖言」を用いて、
平気で自分たちに都合のいいことをしています。
学校だけではありません。
PTAとか、教育委員会というのも、そうではないでしょうか。


昨日、多くの自治体では入学式があったことと思いますが、
PTA会長は意図したかしらずかわかりませんが、

PTA活動は「学校の先生のため」と言っていました。


配布された資料には、もちろんそういうことは記載されておらず、
子どもたちの成長を地域全体でサポートしよう  のようなことが書いてありましたが、
PTA会長が言ったのが、本心なのでしょう。


敷かれたレール
という使いまわされた表現がありますが、
実際、自分の目標や進路のイメージというのは、
かなりの部分が、「学校」という構造によって形作られ、
意図せずに、学校の描いたシナリオに、あわされていっていると感じます。

逆に、乗っかっているときには、
乗っかっていれば大丈夫という安心感があり、
意識的に乗っかるように努力するということもあると思います。



もしこれを見ているのが親の方であれば、
進路というものについて、学校がいろいろと提供してくる情報ではなく、
子どもが今どうしているのか、というのを観察してみてください。

子どもだって、安心がいいんです。
楽したいんです。
一日中ゲームやって、遊んでいても、
勝手にご飯が出てくるような、ぬるま湯の10代をすごしているならなおさら、
「勉強しなさい!」といわれながらも、
コースをギリギリ落っこちない程度にやりくりしようとしますよ。

そんな様子を見て、

まあ何とか大丈夫か 

と思わないでください。
本当にやりたいこと
目標

そういったものを放棄して、だらだらしていたい

それを目標として生きてしまったら、
コースからちょっとでもはみ出てしまったら生きていけなくなりますよ。



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